東京・渋谷で「明治神宮の森」となっているところは、かつて練兵場があったところです。戦争が終わり、練兵場が閉鎖されたとき、日本はどうしたかというと、そこを森にしました。だからいまは「神宮の森」です。明治神宮の森に植林した当時は、日本国内では早成する杉や松が盛んに植えられた時期でした。けれど当時の人たちは、神宮の森に、杉や松、檜などの針葉樹は植えずに、椎(しい)の木や樫(かし)の木、あるいはくすの木などを植えました。
なぜでしょうか。実は、杉や松のような針葉樹は、亜硫酸ガスに敏感です。だから昔の人は都会で育てるのを可哀相と考えたのです。そこで、広葉樹を植えました。広葉樹は、背の高い針葉樹林の下に生えます。森では、針葉樹が上空を覆い尽くしますので、 地上低くには日光があまり届きません。そのなかで少しでも光合成を行ないたいから、葉が広い。
ですから、広葉樹は、針葉樹の陰にならない、直接日のあたるところなら、少々空気が悪くても元気にに育ちます。大昔から、木や森と仲良しだった日本人ならではの発想です。そんなわけで、神宮の森には、椎や桐などが植えられました。
植樹をするということになったときには、当時まだ日本領土であった樺太や台湾、朝鮮半島からも、13万本もの苗木が寄せられました。こういうときに、海外の一部の国では、強制徴発が行われることがあります。上からの命令で、およそ考えられないような無茶苦茶な強制徴発が起きたりします。
日本は違いました。民衆が明治神宮への日頃の感謝の思いから、自発的に苗木や、大木を寄進したのです。本当の善意で集まるものと、強制徴発によってデタラメに集められるもの。 数だけ見てたら、その違いに気が付くことはありません。けれど人の善意という意味で、そこには天地ほどの違いがあります。そして、そういう善意の苗木が、いまは中共となっている、かつての満州からもちゃんと寄せられていました。集められた苗木は、一本一本、全部手作業で植樹しました。その善意の苗木たちが、いま、神宮の森になっています。
もともと神宮の森のあたりに自生していたのは、椎や、樫、楠などの広葉落葉樹ではありません。椿(つばき)や榊(さかき)などの常緑小高樹でした。実は、これら椿や榊が、戦後68年経ったいま、ようやく樹々の下に自然にもどってきました。
木は、何もない地面がむき出しの状態のところに、いきなり繁殖したりしません。このことは、造成した後に空き地になったところなどに、何年かして草がボウボウに生えても、なかなか木が生えないことを見ても、あきらかです。
何も植物の生えてない荒れ地を裸地といいますが、そこに最初に生えるのは、背の低い一年生の雑草たちです。それが何年か続くと、だんだん背の高い草が生えるようになり、最後にはススキなどの根のしっかりした草が生えるようになります。
それが何代も(つまり何年も)繰り返されると、だんだん地味が肥えてきて、ようやく木が生育できる環境が整います。
木は、はじめに低木林が自生をはじめ、次いで松や白樺などの背の高い陽樹林が生育します。陽樹林は、草たちよりも深く根を下ろしますから、土壌が深く厚くなります。そして森ができることによって、小動物達もそこで生活を始めます。
そして陽樹林が育つと、森の内部は上空を樹々がおおい、地上近くには日光が届きにくくなります。そして地表は湿気を帯びてきます。そうなると、陽のあまり届かない暗い地表でも繁殖できる種類の樹木が育ちはじめます。これが陰樹(いんじゅ)で、クスノキ、カシノキ、ブナ、シイ、ツガなどがその代表とされています。これらの樹々の特徴は、葉が広い。先ほども申し上げたように、太陽の光が届きにくいから、すこしでも太陽の光を吸収しようとして、葉が広くなっているわけです。
こうして、しばらくは、松やスギなどの陽樹と、クスノキやブナなどの陰樹が交じった森になります。けれど、地表が湿り気を帯びた地層だと、陽樹は新たに生育できにくくなるため、森は次第に陰樹林となっていきます。陰樹林内でも、陰樹は生育できるからです。これが森の極相(クライマックス)です。そして広葉樹は、落葉しますから、落ち葉をバクテリアが食べ、そこに腐葉土ができあがり、森の貯水力も高まり、土壌が豊かになり、地上には森林性の草本も生えるようになるわけです。
空き地が極相林になるまでに最短で200年です。これが林の場合です。広大なエリアの野山全体が、極相森となるためには、自然だけの力では、4〜5千年の時が必要です。
日本の国土は7割が森林に覆われています。けれど大東亜戦争が終わったとき、日本は、森林をなんと30%も失っていました。戦争によって石油の入手が困難だったから、もっぱら木々を伐採して熱を得るしかなかったのです。
森は、いちど死にはじめると、復活は困難です。ところが、いまでは、日本の森林は、元通りに戻りました。なぜ70年もしないうちに元に戻ったかというと、植林したからです。
大東亜戦争が終わったとき、昭和天皇は全国を行幸して廻られました。それは国民に、ふたたび立ち上がるための勇気を与えるためですが、もうひとつ、陛下は全国の行幸の先々で植樹をしてまわられたのです。陛下が、ご自分の手で植林されるのです。地元の人たちは、これを黙って見ているわけにはいきません。そこで戦時中に失われた森、禿げ山になっていた山々に、村中みんなで植林を興したののです。その結果、日本の森はもとの広さに戻りました。《参考記事:昭和天皇行幸》http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1322.html
朝鮮半島は、いまでこそだいぶ山々に緑が茂るようになりました。けれど、日本統治前は、その山々はほとんど禿山でした。1880年代のソウルの南大門大通りの写真を見ると、 遠くに見える山々に木がまばらにしか生えていない様子が見て取れます。
朝鮮半島には、いまから1万2000年以上前の遺跡は数十カ所あるのですが、7000年前から1万2000年前までの5000年間に、半島に人類がいたことを示す痕跡としての遺跡がありません。つまり、人が住んでいませんでした。理由は、諸説ありますが、もっとも有力なのが、森林枯渇説です。
人は生活のために火を使いますが、そのために木を伐ります。 木は、伐ったあと、ちゃんと植林してあげない限り、すぐには生えてくれません。森に木々がなくなると、そこに小動物もいなくなり、果実もなくなり、貯水能力を失った山は、大雨が降る度に、平野部に土砂を流します。つまり、平野部での農業などもできなくなるわけです。
おそらく、1万2000年前まで朝鮮半島に住んでいた人たちは、森を伐採して木を失い、食べ物もエネルギーも失って、土地を捨てて去っていったのでしょう。そして朝鮮半島に人が戻るまでに緑が戻るには、5000年の長い時を必要としたわけです。
その朝鮮半島も、2世紀頃になると、人口が増えてきました。 ただ、太古の昔と違ったのは、三韓に別れて互いに争い、部族同士で殺し合いばかりやっていたことです。これは酷い話です。けれど互いに殺し合って人口が減った分、森が喪失されるのに時間がかかりました。それでも約1800年の間に、朝鮮半島では、禿げ山ばかりになってしまいました。
日韓併合のあと、日本が設置した朝鮮総督府は、朝鮮半島内で5億9千万本の植林を行いました。これは当時の朝鮮人ひとりあたり25本という、とうほうもない数です。他にも民間ベースの植林が行われました。結局、日本統治時代に植林された数は、10億本という数になりました。いまの韓国や北朝鮮の山々が緑なのは、そのためです。
サウジアラビアといえば、中東の砂漠地帯として有名です。けれどはるか大昔は、ここも稔り豊かな緑の大地でした。ついた名前が「エディエン」です。「エデンの園」です。
エディエンでは、イブがリンゴを食べたために神から楽園を追い出されたと言い伝えられています。イブは女性です。女性は食事を作るために火を使います。 火=赤=りんご、です。火をつかうことによって、森が失われ、そこが砂漠化しました。ついには人が住めなくなり、人類は他のエリアに移動せざるを得ませんでした。そしてサウジは、いまでも砂漠です。
イスラエルも、荒涼とした砂漠地帯です。けれど、先般ご紹介したマサダ砦のあたりも、戦いのあった2000年前は、緑の大地でした。
中国も、いまでは黄砂の舞う砂漠地帯です。けれど、もともとは、そこも緑の大地です。 中国大陸も植樹すれば緑豊かな大地になるのです。おもしろいもので、Google Mapの航空写真で、日本や朝鮮半島、支那を観ると、いかに日本の緑が濃いかわかります。植林したところだけに樹木が生え、他は禿山です
現生人類が誕生したのが、いまから15万年ほど前だと言われています。世界中に人類が散ったのは、いまから5万年前のことだという説もあります。ところが日本では、12万年前の石器が発見され、人工的に加工した石器としては、3万年前に作られた世界最古の磨製石器が出土しています。土器も世界最古で、1万6500年前のものが日本で発掘されています。
それが、世界全体の人類史と、どのように結びついていくのかは、今後の研究が待たれる問題です。ただ言えるのは、日本には12万年前から人がいて、1万6500年前には土器文化があった、ということです。土器を作るには、火を使います。燃やすのは木です。それだけ発達した文明があり、火を使いながら、日本が砂漠化しなかったのは、日本が温帯というばかりではありません。植林文化があり、森と共生して暮らしてきたからです。ですから、8千年前には漆などの栽培も行われています。
戦後、高度成長以降の私たち日本人は、この森を次々に開拓し、住宅やマンションにしていきました。木で作られる住宅も、セメントで作られるマンションも、どちらも「死んだ材料」で作られるものです。
耐用年数は、せいぜい数十年から、数百年です。それを作る人も、住む人も、せいぜい生きても100年。しかし森は、数百年から数千年、ときには万年にいたるまで、命をつむぎ、育て、私たちに必要な酸素ときれいな水を供給してくれます。
戦国時代の日本は、実は世界の鉄砲総数の約半分を保有する鉄砲大国でした。 鉄砲は鉄でできています。作るためには大量の火力が必要です。そのためには、大量の森林資源を伐採なければなりません。
けれど戦国大名たちは、決して禿山(はげやま)を作りませんでした。同時に植林をしたからです。戦国大名たちは、そういう土木林業の育成も同時に行っていたのです。
もちろん、日本が高温多湿であり、山間部の土地の栄養価が高く、森林の生育に適した環境にあるという一面もあります。けれど、日本の山間部の土地の栄養価が高いのは、それだけ長い期間、日本人が森を大切に守り通してきたからに他成りません。いくら高温多湿な温帯地方であると言っても、森は植林し、ちゃんと面倒をみてあげなければ、なってしまうのです。
そうやって森を大事にしてきた日本は、植物への感謝を忘れなかった国でもあります。欧米や朝鮮半島、支那等では、食事の火を得るために木を伐採し、土地の砂漠化を招いたり、禿山を作ったりしていることと比べると、そこには天地ほどの差があるといえます。
戦国大名の間で流行ったのが、茶道です。茶道は、緑の中に草庵を営み、そこで、正装して、威儀を正して行います。武器も持たない。そこでは酒も飲まない。座る姿勢も、あぐらではなく、正座です。そこで、苦い抹茶をいただきます。
なぜそんなことをしたのでしょう。それは、おいしいお茶をいただくとわかります。安い抹茶はただ苦いだけですが、良い抹茶は、いちど飲んだらわかるのだけれど、濃厚な新緑の香りがします。まさに森の香りです。
つまり緑の中で草庵を営み、酒も飲まずに姿勢を正してお茶を飲んだのは、あらためて緑の息吹を体内にとりいれることで、自然との一体化や調和を図る。そして同時に森に感謝する。だから、正装して、威儀をただしてお茶をいただいたのです。茶の道は礼節の道といいますが、なぜ礼なのかといえば、その根底には自然への感謝の心があるからです。
私たち戦後の日本人は、なにかとっても大切なことを忘れてきたのではないでしょうか。大切なことを忘れ、戦後の日本人は、森をずっと粗末にしてきました。昔の人は、家を建てると、敷地に木を植えました。そこには木を大切にする心があります。最近の人は、家を建てても、あまり敷地に木を植えません。敷地が狭いということもあるかもしれません。植木をすると、手間がかかって、面倒という理由もあることでしょう。では、昔の人は、どうして敷地に木を植えたのでしょうか。
庭に木を植えましょうと言っているわけではありません。戦後の区画整理で、第一種住居専用地域に指定されたところの多くは、以前は田んぼだったり、林だったりしたところです。そして住居専用地域に指定された当時は、そこはまさに新築の家が建ち並ぶ高級住宅街であり、若い小学生くらいの子供のいる核家族が住むところでした。
けれどいま、その第一種住居専用地域は、建っている家は老朽化が進み、住んでいる人も子供達は大人になって出て行ってしまい、あとには住宅ローンの残債を年金で払い続けなければなららないお年寄りだけが住んでいます。あと50年経ったら、そこはどうなってしまうのでしょうか。
米国などには、その実例があります。かつては高級住宅街だったエリアが、いまでは、ヒスパニック系など移民達が住むスラム街になっています。お金持ちたちは出ていってしまったのです。
日本はどうでしょう。あと50年したら、かつては第一種住居専用地域に指定され、高級住宅が建ち並んで笑顔があふれていた地域が、不法移民達が、老朽化した家を勝手に占有して暮らしているスラムにしてしまうのでしょうか。
米国のように国土が広い国と日本は違います。日本は、あくまで、いまある土地や森や田畑を大切に育んでいかなければならない国です。私たちの先祖たちは、歴史や故事に学びながら、それらを大切にしてきました。だからこそ、日本は、いまだに森のある国でいます。
目先の政治課題も大切です。けれど国家百年の、あるいは千年の未来を見据えた政治も、同じくらいたいせつなことです。